誇り高き医人達 / 山田 光胤先生

誇り高き医人達

ここに掲げる人々は、その詳伝こそ明らかではないが、みな実在の人物であったことは、ほぼ間違いがない。これらの人々は、それぞれ異なった一生を送ってはいるが、共通するものは、いずれも生涯誇り高く生きたことであった。ここに上げる逸話は、その一端に過ぎないが、これらの人々の精神を、窺う事が出来ると思う。ただ、筆者の拙ない文章で、十分にこれを伝えることが出来るかどうかと心配している。

1) 向井元升

謙譲にして誇り高き向井霊蘭は名を元升、字は以順通称観水といい、霊蘭と号した。医家人名辞典によれば、1609年(慶長十四年)肥前に生れ、1677年(延宝五年)に没している。生家は名門の出といわれるが、当時は落ちぶれていた。

元升が志しを立てたのも遅く、二十二才の時、初めて学問をする決心をしたと言う。当時の学問とは即ち儒学を指していた。その後更に、独学で医学を修めようとした。そして、長い年月の間、非常な苦労をしながら、勉学に励んだ末、遂に、近隣に並びない学者になった。ことに、医学には最も優れていたので、医者としての名が高くなり、九州一円にその名を知られた。そのため、門人になるものも数多くあった。

そこで、近隣の大名達は、元升を侍医に召し抱えたいと思って、次々に使者を寄越したのである。その中でも、平戸侯は最も熱心で、三百石を与えるから、仕官しないかと言って来た。当時、町医者が三百石も取ったら、大変な出世であった。ところが元升は、自分が健康でないからと言う理由を言って、その仕官を断ってしまった。するとその後で、黒田侯が元升の治療を受けて、その医術に惚込んでしまった。そして、七百石で抱えたいと言い、その上、朝廷にお顧いして、位階を頂いてやろうと言ってきた。しかるに元升は、これもまた丁寧に断ってしまった。今度の理由は両親が年老いているから、他国へは行けないと言う事であった。

万治元年、妻子を連れて京都へ上った。恐らく、両親が死去した後であろう。以来長い間京都に住んだのでのである。その間、元升の医名は益々高くなった。そして、朝廷や宮家を始め、大名諸侯で、元升の治療を頼むものは後を断たず、また教えを乞う門人は門に満ちたと言う。元升は、人となり温厚でしかも純粋であり、人に接するには真心を持ってし、常に礼儀正しく謙譲であった。医名は天下に高く、自身で立身を望めば、幾らでも出世する機会はあったのに、生涯遂に仕官しなかった。ここに向井元升の誇りがあったのだ。

延宝五年、享年六十九才で病没した。元升の死を聞いて、惜しまない者は無かったと言う。著書十数篇、名ある門人に、貝原益軒をはじめ数人があった。 (皇国名医伝 本朝医人伝)

2) 自から頼む樋口三生

信州の人樋口三生は、その正伝は残念ながら詳らかでない。三生は、若い頃、諏訪のある医者に弟子入りして、医術を学んだ。卒業すると、郷里の信州松島へ帰って開業した。

三生は医学を深く修め、人柄も良かったので、患者の信頼が大変深かった。そのため、三生が開業したと聞くと、今までの患者が、我も我もと三生の家を尋ねて来たのである。これを見て、近隣の病人も、当然三生の治療を受けにやってきた。そこで三生は、開業早々たちまち門前市をなすほどの流行医になってしまった。この成功にあったとき、三生が心に深く考えたものは、世の常の人とは違っていた。

「先生の患者が、こう沢山私のところへ来たのでは、先生の方はさぞかし患者が減ってお困りだろう。これはなんとかせねばならぬ」と言うのであった。暫くの間考え抜いた三生は急に、あれ程流行った医者の看板を、惜し気も無く外してしまった。三生の考えでは、自分がここにいさえしなければ、先生の患者が自分の所へ来る事はないと思ったからである。そして、自分はもう一度自力でやってみようと決心して、江戸へ上ることにした。するとその夜、三生は夢の中で白雪に輝く富士の山が、諏訪湖の水面にはっきりと映るのをみた。翌日彼は「これは良い夢知らせだ」と喜び勇んで故郷を後にしたのであった。

江戸に出た三生は、やがて、その優れた医術を世間に知られ、江戸中の評判を取った。そして、その門戸は大いに繁昌し、その上江戸幕府にこのことを知られた。間もなく彼は、幕府医官として召し出され、後には、法眼に進んだと言う事である。(和漢医籍小観)

今の医者には、病院に勤める時は、成るべく患者と親しくしておき、やがてその近辺で開業して元の病院の患者を引っ張るのが、上手なやり方だと言うものある。昔の名医の気概とは、較べることも出来ないことだ。

3) 江戸の医傑に思う

大昔、医療は王道であった。天下を治める者は、医術によって民心を治めた。人民に生活の術を教えると共に医術を施して病苦を救うことは、民を治める手段であった。それ故、中国の神話時代には、黄帝、神農という二人の帝王があった。黄帝は黄帝内経という古典にその名を仮托され、共に医神と仰がれている。

我が国における医祖神は、大己貴命と少彦名命である。大己貴命は、一般的には大国主命の名で知られている。出雲族の王である。日本神話によれば、大国主命は出雲地方を治めて善政を敷いた。神代の名君主出、青年時代に因幡の白兎を助けた話は、有名である。少彦名命は、はっきりした伝承が少ないが、大己貴命の宰相のような立場にあった神であろう。上古、医術は神を司祭する巫が受け継ぎ、これが巫医となった。これもまた、為政者の政策であったと思う。

中世になって医術はようやく巫術より分離した。しかし、医者そのものは近世まで、権力者のお抱え医者であった。日本で自由開業の町医者が出来たのは、近々江戸時代以降であった。それでもなお、名医と言われるほどの多くは、朝廷や幕府または大名の侍医であった。医者が真に自由業となったのは、明治以降ではないだろうか。明治維新には、幾多の輝かしい改革があったが、医学の独立もその一つではあるまいか。

4) 医療費均一の名医

ところで、日本では昔から、医者は均一料金ではやっていけないと言う、不思議なことがあった。宮中や将軍、大名のお抱え医者は、月給(正しくは年給)で生活できたが、町医者はすべて患者から来る医療費で生活した訳である。しかし、当時、医者への支払いは、大抵は盆暮れにまとめてしたもので、その際、患者は自分の懐具合で、それぞれ相応な金や品物を持って行った。これを薬札と言ったものである。金持ちはそれ相応に多く、貧乏人はそれなりにお礼の印を表したのである。その他、臨時の収入もあった。それは大名や大金持ちを治療した時であった。さて、歴史上名のある名医で、医療費を均一にした人が二人あった。

一人は、甲斐の徳本の名で知られる、有名な永田徳本で、もう一人は徳本の衣鉢を継いだ、小島蕉園である。永田徳本は、戦国時代から江戸時代初頭にかけての人出、薬価を一帖(一服)十八文にして、貴賤貧富の区別なく治療した。ところが、これほどの名医でも、十八文均一の治療費では、生涯貧乏であった。小島蕉園は、江戸時代後期の人で、はじめ幕府の役人であったが、官を辞して町医者になった。その時永い間、世に知られなかった永田徳本の遺方を見出して、これを世に出し、自らその衣鉢を継いで徳本流の医術を行った。そして有名になって相当忙しくなったけれども、薬価を三十六文均一にしたので、常に貧乏に悩まされた。

今の健康保険制度も、一つの均一料金制である。しかし、徳本や蕉園は、医者自らの意志で行ったものであるが、今の制度は、医者と患者の間に介在する大きな力のあるものによって造り上げられたものである。無論これは、ある程度必然的な世の流れによるものではあるが、ここに至って、明治の官僚が漢方医学を葬り去るほど思い切った改革をして、為政者から独立させた医学は、再び中世以前のごとく、大きな力で統制されつつあるのである。嘗って、医療費は薬札といわれた。この言葉で、医療の精神がよく表されていると思う。しかし、今ではこのような医療の精神面は、他からの大きな力でいやおうなしに失われようとしている。医療費は薬札といった昔の医の精神を守るのは、皮肉にも明治の官僚が葬り去ろうとした漢方の衣鉢を継ぐ者だけになるのではなかろうか。それは丁度、明治の漢方医が孤塁を守った時のように。

山田光胤
略歴:金匱会診療所所長。日本東洋医学会会長、国際東洋医学会会長を努め、現在日本東洋医学会名誉会員。全国に数多くの弟子を輩出している。漢方界の長老の1人。

 


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